世界で初めてカルシウムイオン濃度を可視化(カルシウムイメージング)した、神経科学界のレジェンド的存在、工藤佳久先生のカルシウムのコラム
リンガー先生はカエルの心臓を体外で活動させる研究に着手した
「リンゲル液」という学術語は中学の理科や高校の生物の教科書に登場します。これはイギリスの医師、シドニー・リンガーが1880年代に作った人工血液の名称です。ご存じのように日本の西洋医学はドイツの影響が強く、「リンガー」の名前は「リンゲル」と発音され、現在も日本では「リンゲル液」と呼ばれています。発明当時から21世紀の現在でもなお改良され人工血液として使われています。 リンガー先生が活躍した19世紀末は物理、化学、医学など広い分野の科学が一気に発展した時期です。生物学も例外ではありません。当時は、実験動物として扱いやすいカエルがいろいろな生物学研究に使われていたようです。その中でも胸部を切り開いた時、現れる心臓の激しい活動は多くの医師や生物科学者に注目されました。その一人がリンガー先生だったのです。この心臓を身体から取り出して動かすことができるか、これは斬新な研究でした。19世紀半ばにはコレラの治療に生理的食塩水(純水に塩化ナトリウムを溶かした液体)を血液中に注入する方法が使われていたようですから、リンガー先生はカエルを体外で動かすための人工血液の候補として生理的食塩水に着目したものと考えられます。そこで、水道水を蒸留し「蒸留水」(ほぼ純粋な水)を作り、塩化ナトリウムを溶かした液を使い、あっさり、体外に取り出したカエルの心臓の活動を観察することに成功したのです。しかし、これはまだ完成ではなかったのです。
水道水が気づかせてくれた、カルシウムの重要な働き
リンガー先生のリンゲル液作りにまつわる有名で、重要なエピソードがあります。それは「リンガー先生がいつもの蒸留水に塩化ナトリウムを加えた人工血液を使って心臓の活動を観察していたが、その日、実験途中で人工血液が足りなくなり、助手に急いで作るようにと命じた。やがて、助手が作ってきた「塩化ナトリウム水」を使ってみると、驚いたことに、心臓がこれまで見たこともないほど活発に動いたのです。助手に、「この液は何だ!どのように作ったのだ!」と問いただすと、助手は、「ごめんなさい!蒸留水が切れてしまっていたので、水道水をそのまま使って作ってしまいましたと答えた」というお話です(図1は私の想像図ですが、かなり確かなものと考えています)。水道水に含まれている物質の中に心臓の活動に必要な物質が存在していたのです!その重要な物質こそ、カルシウムなのです。実はヨーロッパの地層は炭酸カルシウムを主な成分とする石灰石が多く、その地層を通って流れてくる水にはカルシウムが多量に含まれています。このような水は「硬水」と呼ばれます。カエルの心臓の活動にはカルシウムが必要だったのです。
因みに、文部科学省の「日本食品標準成分表」で、日本の水道水に含まれるカルシウム量を調べて見ると全国の水道水の中央値は100 mlあたり 1.27mg (1リットルあたり12.7mg)とのことです。この量のカルシウムを含む水は「軟水」と呼ばれ、まろやかで飲みやすいのが特徴です。しかし、この量では水道水から必要なカルシウムを摂取することはできません。ヨーロッパでは水道のカルシウム量が200〜300mg/Lを超えることも珍しくないようです。水だけでこれだけのカルシウムを摂取できたら骨粗鬆症の心配は殆どありません。しかし、これだけのカルシウムを含む水は美味しくないどころか、デリケートな日本料理の味にも重大な影響を及ぼしそうですね。美味しさをとるか、骨の健康をとるか辛い選択です。
リンガー先生はその後、試行錯誤を重ね、ナトリウムを主成分として、カリウムと最適量のカルシウムを加えた人工血液(リンゲル液)を造り出すことに成功したのです。これは基礎生理学研究には欠かすことが出来ない重要な業績です。さらにその後、リンガー先生が作った人工血液は改良されて人間の血液の代わりになるレベルまで発展し、事故や戦争での大けがで大量出血をした人を救うという大きな業績に発展してゆきます。
残念ながら、リンガー先生はノーベル賞を受賞することはできなかったのですが、リンガー先生が確立した「カエルの心臓を体外に取り出して活動を計測する」という実験手法を用いてノーベル賞を受賞した二人の科学者がいます。それは、神経科学では有名で、私の著書「もっとよくわかる!脳神経科学」にも登場するヘンリー・デール先生とオットー・レーヴィ先生です。彼等はリンガーが確立したリンゲル液を使って体外に取り出した二個のカエルの心臓を連動し、一方の心臓から拍出された液を隣の心臓に導入するという方法を使っています。この方法で「心臓の活動をコントロールすることができる神経伝達物質(アセチルコリン)」を発見しています。そして、1936年のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
カエルの実験によって、活発な心臓の活動にカルシウムは不可欠であることが判明しました。これは人間にも当てはまることで、カルシウムなくして我々の心臓は十分に活動しないということを意味します。
カルシウムは、骨や歯の成分だけと思われがちですが、心臓の筋肉の活動に不可欠な栄養素であることを、この実験は示しています。しかし、これはカルシウムの生命維持機能のごく一部なのです!

図1 シドニー・リンガー先生の実験装置を想像してみました。
左右の装置は全く同じです。左の上部にある瓶①には蒸留水に塩化ナトリウムを溶かした人工血液としての生理的食塩水が入っています。カエルから切り出した生きたままの動いている心臓③(人間とは違って、二心房、一心室)です。左と右の心房に血液を送る血管の一方にガラスのリンゲル液溜②の下部を挿入して、糸で固定し、人工血液が送り出されるようにします。一方の血管は縛って止めてしまいます。人工血液は心室に吸い込まれ、心室が収縮すると、人工血液が動脈を通って、押し出されます。動脈は左右の二本に分かれているのですが、一方は縛って止めてしまいます。こうして、心臓の活動で送り出された人工血液を漏斗④で集めて、液量を測定用のガラスの器⑤に集め、拍出量を測定します。そのまま、右の図を見て下さい。左と全く同じです。しかし、上部の瓶①には水道水で塩化ナトリウムを溶かした人工血液がはいっていること以外は全く左と同じですが、心臓の動きは活発で、猛烈な勢いで、人工血液を拍出していることを測定用のガラス器に溜まった水量で認識できます。
動画:
30年程前、私が東京薬科大生命科学部の教授を務めていた頃、フジックス株式会社の井上蘭子社長に依頼された実験のビデオ画像です。井上氏は心臓の活動にカルシウムが必要なことを実証したいとのことでした。そこで、生命科学部の学生実習の一項目として実施していたウシガエル(食用蛙とも呼ばれます)の摘出心臓を使って行った実験です。その時のビデオデータが残されていたのです!この実験に使われた方法は図1で示したリンガー先生の方法(想像図)とは大きく異なります。大動脈から拍出するリンゲル液をガラスパイプを使って元のリンゲル液溜に戻すのです!この方法は昭和初期に日本の薬理学者・生理学者である八木日吉先生(京都帝国大学)によって考案・確立された「八木式心臓還流法」と呼ばれる優れものです。
まとめ
- 水道水に含まれるカルシウムが心臓を動かし、人工血液(リンゲル液)誕生のきっかけになった。
- 日本の水道水はカルシウムがほぼ含まれないため、食事で意識して摂る必要がある。
監修
工藤佳久 先生
1964:名古屋市立大学・薬学部卒
1964-1968:興和株式会社東京研究所勤務(この間、名古屋市立大学、和歌山医科大学、大阪市立大学・医学部へ国内留学)
1968-1978:名古屋市立大学 薬学部 助手、講師、助教授
1978-1995:三菱化学(三菱化成)生命科学研究所 主任研究員、脳神経薬理学研究室・室長、脳神経科学部・部長
1995-2005:東京薬科大学・生命科学部 教授
2003-2007:特定領域研究「神経グリア回路網」総括班長
【著書】「神経生物学入門」 (朝倉書店、2001年)、「神経薬理学入門」(朝倉書店、2003年)、「生命学がわかる」工藤・都筑共著(技術評論社、2008年)
工藤佳久著・図「改訂版 もっとよくわかる!脳神経科学」(羊土社2019)など